2012年06月23日
名勝負の裏側
(1度引退する前の)伊達公子のベストマッチは、と聞かれて恐らく大半の人の答えは、96年に有明で行われたフェド杯での対グラフ戦だろう。3時間25分の激闘の末に、当時ナンバー1のグラフに初めて勝った試合で、ファンや関係者、そして伊達自身もそれを認めている。ただ、「私が考える名勝負の定義」に当てはめるとどうもそうではないらしい。では、その定義は何かというと、1、お互いのプレイヤーがその試合にどうしても勝ちたいと思い(モチベーションのレベルの高さ)2、その持ち味を十分に発揮した上で勝負が決まる事(パフォーマンス自体のレベルの高さ)である。伊達対グラフ戦で2は、その試合内容を見ればもちろんクリアしているのだが、問題は1の方だ。具体的に言えば、なぜグラフが日本に来たか、だろう。NHKの(ラジオの)ニュースでグラフがこのフェド杯に参加すると聞いた時、すぐにこれはおかしいと思った。普通は若手中心のメンバーで構成されるフェド杯に、(ベテランで)ナンバー1のグラフがわざわざ召集されるはずはない。よっぽどシングルスの有力選手がいなければ話は別だが、ドイツではナンバー2の実力者アンケ・フーバーもいたし、このグラフの急遽参戦に1番驚いたのは(多分)日本側ではなく、同じドイツチームのメンバーだったに違いない。もう1つ気になったのは、グラフが95年と96年の全豪をスキップ(欠場)した事情で、その2年は東レPPOにも来なかった事だ。もうここまでくれば分かると思うが、グラフが日本に来た理由は、国同士が威信を賭けた戦いだったからではなく、単なる顔見せだったと個人的には思っている。ナンバー1プレイヤーがさすがに2年もほったらかしではまずいと思ったのだろう。だから4月に日本でフェド杯があると聞いて、あわてて参加する気になったのだ。普通の大会なら1週間は滞在する所だが、幸いフェド杯なら2日で終わる。まさに「渡りに船」の心境だったはずだ。あれだけ死力を尽くした伊達とのロングマッチを終えた後に(正式なダブルスのペアがいるのにも関わらず)フーバーとの急造ペアで最後のダブルスの試合にも出たグラフには、もうフェド杯の勝ち負けはどうでもよかったのだ。ただ、自分がアピール出来ればいい、グラフなりの2年分のサービスのつもりだったかも知れない。
まあ、これも「ナダルはカウンターテニス説」を唱える私だけの仮説の一つだ。信じる、信じないは貴方次第にしておこう。
最後にマイベストを挙げれば、「トーシバ・テニス・クラシック」で優勝した試合である。初対戦で勝って以来、ずっと連敗していたサンチェス相手にスマートなテニスで勝利した伊達の最高の瞬間だったと思う。そして、クルム伊達のベストマッチは果たしてどの試合になるのだろう。
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